本記事は、連載「AIの歴史」(全11回)の第2回です。

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「人工知能」という言葉には、生まれた日付があります。

多くの学問分野の名前は、誰が最初に使い始めたのか、はっきりしないまま定着していきます。しかし「人工知能(artificial intelligence)」という言葉は違います。1955年8月31日付のある提案書に、この言葉は初めて明確な定義とともに書き込まれました。そして翌1956年の夏、その提案書に基づいて開かれた会議が、いまも人工知能という分野の始まりとして語られています。

前回の記事では、1950年にアラン・チューリングが「機械は考えることができるか」という問いを、模倣ゲームという検証可能な形に置き換えたことを取り上げました。チューリングは、答えの出ない問いには踏み込まず、外から確かめられる基準に置き換えるという、慎重な手つきを選んでいます。今回取り上げるダートマス会議は、それとは対照的に、もっと踏み込んだ賭けに出た会議でした。

二ヶ月、十人、一つの賭け

その提案書のタイトルは「人工知能に関するダートマス夏期研究プロジェクトの提案」といいます。著者は四人。ダートマス大学のジョン・マッカーシー、ハーバード大学のマービン・ミンスキー、IBMのネイサニエル・ロチェスター、そしてベル研究所のクロード・シャノンです。

提案書の中心にある一文は、いまも繰り返し引用されます。

学習や知能のあらゆる特徴は、原理的には極めて精密に記述できるので、それをシミュレートする機械をつくることができる、という推測に基づいて、この研究を進める。
The study is to proceed on the basis of the conjecture that every aspect of learning or any other feature of intelligence can in principle be so precisely described that a machine can be made to simulate it.

これは証明された事実ではありません。あくまで「推測(conjecture)」だと、著者たち自身が書いています。人間の知性がどのように働いているのかもまだ十分に分かっていない段階で、それを機械で再現できるはずだと賭けに出た。ここに、この提案書の大胆さがあります。

提案書は、1956年の夏にダートマス大学で二ヶ月間、十人程度の研究者を集めて共同研究を行うことを提案し、ロックフェラー財団に資金援助を求めました。要求した予算はすべては認められず、実際に得られた資金は7,500ドルほどにとどまったとされています。決して潤沢な計画ではありませんでした。

なぜ「サイバネティクス」ではなかったのか

1950年代半ば、機械と知性の関係を論じる分野として、すでに「サイバネティクス」という言葉がありました。数学者ノーバート・ウィーナーが1948年に提唱した概念で、機械と生物に共通する制御とフィードバックの仕組みを扱う分野です。

マッカーシーは、この既存の言葉を使わず、あえて「人工知能」という新しい言葉をつくりました。研究者の間でしばしば語られる説明によれば、サイバネティクスという言葉には、ウィーナーが率いる特定の研究潮流や、アナログ的な制御理論のイメージが強く結びついていたため、記号処理や計算という、マッカーシーたちが目指す方向性を表すには不向きだと考えられたためだといいます。

四人の著者の関心も、それぞれ異なっていました。マッカーシーは数理論理学、ミンスキーは神経回路網のモデル化、ロチェスターはIBM 701という当時最先端の計算機の設計、シャノンは情報理論。異なる専門を持つ四人が、一つの言葉のもとに集まったこと自体が、この会議の性格をよく表しています。

実際に起きたこと、起きなかったこと

提案書には、研究の対象として七つの領域が挙げられていました。自動計算機、コンピュータに言語を扱わせる方法、ニューロンネット、計算量の理論、自己改善、抽象化、そしてランダム性と創造性です。

しかし実際の夏期研究会は、当初の見立てほど整然とは進みませんでした。参加者の出入りは流動的で、二ヶ月間ずっと同じ顔ぶれがそろっていたわけではありません。統一的な理論や合意が生まれたわけでもありませんでした。

この会議で最も印象に残る出来事は、提案書の七項目には直接含まれていなかったものです。アレン・ニューウェルとハーバート・サイモンが開発していた「ロジック・セオリスト」というプログラムが会議で紹介されました。数学の定理を自動的に証明するこのプログラムは、『プリンキピア・マテマティカ』に収められたある定理について、原著よりも簡潔な証明を導き出したと伝えられています。後から振り返れば、この会議で示された最も具体的な成果は、七つの研究課題の外側からやってきたことになります。

会議のあと、参加者たちはそれぞれ異なる道を歩んでいきます。マッカーシーは論理に基づくAI研究とLISPという言語の開発へ、ミンスキーは記号処理と、のちには初期のニューラルネットワークへの懐疑的な検討へと向かいました。この夏の会議自体が一つの理論を生んだというより、その後何十年も分岐していく研究の出発点になった、と見るほうが実情に近いようです。

チューリングの問いとの違い

ここで、前回取り上げたチューリングの模倣ゲームと並べてみると、両者の立場の違いが見えてきます。

チューリングは、「機械は考えることができるか」という問いに正面から答えることを避け、外から観察できる振る舞いだけを基準にする道を選びました。内側で何が起きているかは、あえて問わなかったのです。

一方、ダートマス会議の提案書は、知能を「原理的に精密に記述できる」ものとして扱い、それをシミュレートする機械をつくるという、より踏み込んだ立場に立っています。振る舞いを模倣できるかどうかではなく、知能の仕組みそのものを再現できるという前提に賭けたのです。

この違いは、その後のAI研究における一つの分かれ目にもなっていきます。振る舞いを基準にする立場と、内部の仕組みを再現しようとする立場のあいだの緊張は、記号主義とコネクショニズムの対立から、現在の大規模言語モデルをめぐる議論に至るまで、形を変えながら続いています。

残された問いについて

ダートマス会議の提案書が置いた「推測」は、70年近くを経たいまも、完全に証明されたわけではありません。

知能のあらゆる特徴が、本当に精密に記述できるものなのか。現在の大規模な統計的手法によって実現していることが、1956年の著者たちが思い描いていた「シミュレート」と同じものなのか、それとも別の何かなのか。この問いに、確定した答えはまだありません。

分野としての人工知能は、実務としては大きな成果を積み重ねてきました。しかし、その出発点にあった哲学的な賭けそのものは、いまも検証の途上にあります。

余談:名づけることの力

筆者は、テクノロジーに関する法制度の設計に関わる仕事をしています。その立場から見ると、この提案書には、技術的な内容以上に興味を引かれる点があります。

法律や規制の世界では、ある技術に「定義」を与える作業が、その後何十年もの制度や研究の方向性を左右することがあります。何を対象と呼ぶか、その境界線をどこに引くかによって、規制の範囲も、研究者や企業が何を目指すべきかという方向感覚も変わってきます。

マッカーシーたちが「人工知能」という言葉を選んだ判断も、同じような働きをしたのではないかと思います。既存の「サイバネティクス」という言葉を使わず、新しい名前を与えたことで、この分野は特定の研究潮流から独立し、その後の研究者たちが集まる旗印を得ました。名づけるという行為は、単なるラベル貼りではなく、その後の何十年もの注意と資源をどこに向けるかを決める、実質的な選択なのだと感じます。

そしてもう一つ、この提案書から伝わってくるのは、十人足らず、二ヶ月、わずかな予算という、決して大きくはない構えで、一つの学問分野を宣言してしまう身の軽さです。分野は、最初から完成した形で存在するのではなく、こうした小さく不確かな賭けの積み重ねから始まるものなのだと、この提案書は教えてくれます。

それでは、次回の記事でお会いしましょう。

出典・参考文献