本記事は、連載「AIの歴史」(全11回)の第6回です。

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前回、パーセプトロンへの数学的な批判と、機械翻訳や汎用的な問題解決への失望が重なり、AI研究への資金が細っていったことを取り上げました。この最初のAIの冬を、比較的よく生き延びたのが、記号処理によって知能を実現しようとする記号主義の系譜です。1980年代、この系譜は「エキスパートシステム」という形で、初めての実用的な成功を手にします。

専門家の知識を、ルールの束に変える

エキスパートシステムの発想は、前々回取り上げたライトヒル報告書への、一つの実践的な回答でもありました。「汎用的な問題解決」を目指すのではなく、特定の狭い領域における専門家の知識だけを、丁寧にルールとして蓄積する。範囲を絞り込むことで、組み合わせ爆発という壁を避けようとしたのです。

この発想の先駆けは、1960年代半ばにスタンフォード大学のジョシュア・レーダーバーグとエドワード・ファイゲンバウムが始めた「DENDRAL」というプログラムでした。有機化合物の質量分析データから分子構造を推定するこのプログラムは、汎用的な推論手法よりも、化学という特定領域に特化した知識を重視する、最初のAIプログラムだったといわれています。

エキスパートシステムは、大きく二つの部分から成り立ちます。専門知識を「もしAならばB」という条件文の形で蓄積した「知識ベース」と、その知識を使って推論を進める「推論エンジン」です。専門家の知識をこの形に落とし込む作業には、「知識工学」という名前がつけられました。ドナルド・ミッチーの「認識論工学」という表現を踏まえて、ファイゲンバウムが名づけたとされています。

MYCIN—感染症の治療を助言する

DENDRALの経験を引き継ぎ、1970年代にスタンフォード大学で開発されたのが、MYCINです。エドワード・ショートリフの学位論文として始まったこのプログラムは、血液感染症の患者に対して、どの抗菌薬をどう投与すべきかを助言することを目的としていました。

MYCINは、症例に関する情報を尋ねながら、目標から逆向きに推論を進める「後ろ向き連鎖」という方式で、数百に及ぶルールを適用していきます。医療の判断には常に不確実性が伴うため、それぞれのルールには「確信度」という数値が付けられ、確からしさの度合いを扱えるようにも工夫されていました。

評価実験では、MYCINの示す治療方針が、感染症の専門医の判断と並ぶ、あるいはそれを上回るとさえ評価されたと伝えられています。それにもかかわらず、MYCINが実際の臨床現場で日常的に使われることはありませんでした。医療過誤の責任の所在や、既存の診療の流れへの組み込みにくさなど、技術的な性能だけでは解決できない壁があったためです。技術的に優れていることと、実際に使われることの間には、距離があることを示す早い事例でもありました。

XCON/R1—実際に企業を動かした最初の例

一方、確実に実用に至った例もあります。カーネギーメロン大学のジョン・マクダーモットが開発した「XCON」(当初はR1と呼ばれていました)は、コンピュータ企業DECのために、顧客が注文したVAXシステムの部品構成を自動で決定するプログラムでした。1980年に導入されたこのシステムは、構成ミスによる手戻りを大きく減らし、DECに多額のコスト削減をもたらしたとされています。

XCONの成功は、エキスパートシステムが単なる研究段階の技術ではなく、実際に利益を生む道具になりうることを示しました。この事例をきっかけに、1980年代前半には多くの企業がエキスパートシステムの導入に乗り出し、専用のLISPマシンを製造する企業も急成長していきます。

日本の第五世代コンピュータプロジェクト

この流れの中で、最も野心的だったのが、日本の通商産業省が1982年に開始した「第五世代コンピュータプロジェクト」です。新世代コンピュータ技術開発機構(ICOT)を中心に、論理プログラミングに基づく並列推論機械の開発を目指し、約540億円が11年間にわたって投じられました。512個のプロセッサを持つ「PIM/p」を含む複数の並列推論機が実際に製造され、当時「世界最速最大級の知識情報処理コンピュータ」とも呼ばれています。

この計画は、日本が知識処理の分野で欧米を追い越すという明確な意図を持っており、アメリカやヨーロッパの研究機関にも強い危機感を与えました。しかし1992年にプロジェクトが終了した時点で、専用ハードウェアという方向性そのものが、汎用コンピュータの急速な性能向上に追い越されており、当初目指した規模での商業的な成果には至りませんでした。

なぜ再びブームは終わったのか

エキスパートシステムのブームを終わらせた最大の要因は、「知識獲得のボトルネック」と呼ばれる問題でした。専門家の頭の中にある判断を、一つ一つルールとして書き出し、更新し続ける作業は、想像以上に手間とコストがかかりました。ルールは特定の状況を想定してつくられているため、想定外の状況に出会うと、途端にもろくなるという弱点もありました。

象徴的な出来事として、1987年前後には、エキスパートシステム専用に開発されていたLISPマシンの市場が急速に縮小します。汎用のワークステーションが安価かつ高性能になり、専用ハードウェアである必要がなくなったためです。これを機に、企業や国防高等研究計画局(DARPA)によるAI関連予算は大きく削減され、二度目のAIの冬と呼ばれる時代が始まりました。

同じ問いを、別の角度から

前々回取り上げた最初のAIの冬で、記号主義は連結主義(コネクショニズム)に比べて相対的に生き延びました。その記号主義が、今回、実際の企業や国家を動かすところまで進み、そして自らの限界にも突き当たったことになります。

連載第2回で取り上げたダートマス会議の当事者たちが切り拓いた記号処理の系譜は、ここでようやく大規模な実地試験を経験し、成功と失望の両方を手にしました。

そして興味深いことに、エキスパートシステムのブームが絶頂を迎え、崩れ始めていたのとほぼ同じ時期に、連結主義の側では、静かな巻き返しが始まっていました。次回取り上げる誤差逆伝播という学習手法が発表されたのは、まさにこの時代の只中でした。

何が重要で、何がまだ分からないのか

ダートマス会議に集った研究者たちが思い描いた二つの道筋ー明示的な知識やルールによる知能と、学習によって獲得される知能ーは、この時点までに、それぞれ一度ずつ、期待と失望のサイクルを経験したことになります。

どちらの道筋も、単独では十分ではありませんでした。知識をルールとして与える方法には、獲得と維持の限界があり、学習によって獲得する方法には、当時はまだ計算資源とデータの限界がありました。この二つをどう組み合わせるべきかという問いは、この時点ではまだ答えが出ていません。

ルールを書き、保守し続けるということ

筆者は、社内の情報セキュリティマネジメントシステム(ISMS)の運用に関わる仕事をしています。その一部は、セキュリティ上の判断基準を、文書化されたポリシーや手順として明文化し、それを継続的に更新していく作業です。

ある熟練した担当者の頭の中にある「こういう場合はこう対応する」という判断を、誰が読んでも同じように運用できる文書に落とし込むのは、決して簡単な作業ではありません。書いたそばから状況は変わり、新しい種類の事案が現れれば、既存のルールでは対応しきれないことも珍しくありません。ルールを一度整備して終わりではなく、実務の変化に合わせて絶えず更新し続ける必要があります。

MYCINやXCONが直面した「知識獲得のボトルネック」は、40年以上前のAI研究に固有の問題ではありません。専門知識を明示的なルールに変換し、それを保守し続けるという作業そのものに内在する困難として、いまも形を変えずに存在しているように思います。

それでは、次回の記事でお会いしましょう。

出典・参考文献